読まない自由

読解力と文章力がありません


なので原則長い文章を読めないですし、長い文章をまとめる能力もないです
論文とかを書くのにもっとも向いていないタイプです


さて長期オンライン人狼ゲーム、基本的に読み書きが物を言うゲームかと思われますが、
異を唱えていきたい
意識が低いので。


あんまりこうルールに書いていないことは何やってもいい的思想は好きではないんですけど、
原則寡黙が禁止されてる国ってないんですよね

その上で個人的な好き嫌いはあると思うのですが、
寡黙が悪というよりコミュニケーションが取れないことが悪なんだろうなとも


やっぱり「たくさん喉(時間)を使ったのに寡黙より黒視されるのは納得がいかない」的な、
努力賛美主義な側面が少なからず人狼界隈(に限らずだけど)にはあると思うのですが、
もっと寡黙って認められるべきな気がしてるのです


逆に読む側も「なげえ」「ヒトガオオイ」と思ったら別に真剣に読まなくていいんじゃねえかという
これを寡読といま考えた言葉で呼びますけど、
寡読は果たして悪でしょうか?



なぜ私が寡黙を悪だと考えない傾向にあるか、というと、私自身が寡読だからなんですね
これはあの、読みたくないから極力少ないほうが助かるっていうだけではなくて、
基本的に読んでもらえないこと前提で考えているからなんですよね
人の話聞くゲームではなくて狼(村人)を吊るゲーム、っていうこのゲームの能動性を鑑みれば、
受動タイムは少なければ少ないほどいいなあっていう


で長文を書く技術がない私は必然的に短い文とか少ない発言で伝えざるを得なくなる
=寡黙になるケースが多いってな話


逆に言うと、長文を書く人って、文章力がある(と自分で思っている)か、
人は自分の文を読んでもらえると思っているか、
このどちらかかと思うます


ただ読んでもらえる前提ってやっぱ息苦しいんですよね
発言をするのがあくまで手段であるのと同様、
読むのも目的であってはいけないと

まして読んでもらえたところで正しく伝わるとも限らない、ってかほぼ正しくなんか伝わらない


自覚的か無自覚かはともかく、世の中に寡読の占める割合は思ってるより多いと思います
(それでもゲームの性質上世の中比較では少ない方だと思うけど)
その中で果たして、伝わらないから言葉を費やす、は逆効果ちゃうんけ?っていう




そうそう、今回久しぶりにブログ更新したの、実は「感情的になるのはなぜか?」というお題いただいたからです

人狼において感情的になるのって多分だいたい「伝わらない」時なんですよね、役職にせよ発言にせよ


つまり何が言いたいかっていうと。
伝わらない、でフラストレーションを溜めるくらいなら、
伝わらない前提で書いたほうが結果的に伝わるようになるんじゃないかなっていう


すごく回りくどい寡黙正当化でした